官兵衛の生涯

 

◆誕生

 黒田官兵衛は、天文15(1546)年、姫路城主黒田職(もと)隆(たか)の嫡男として播磨国で生まれました。

 

◆光姫との結婚、長政の誕生

 永録10(1567)年、22歳で家督を継いで姫路城主となり、志方(しかた)城主櫛橋伊(くしはしこれ)定(さだ)の娘光(てる)と結婚。翌年に嫡男松(しょう)寿(じゅ)丸(まる)(のちの長政)が生まれました。

 

◆参謀として

 東の織田信長と西の毛利輝元の両勢力に挟まれた播磨の諸将はどちらにつくか判断を迫られていた、天正3(1575)年、官兵衛は主君小寺(こでら)政(まさ)職(もと)に織田につくよう説得し、自ら使者となって岐阜城の信長に謁見。秀吉の配下に入り軍事参謀としての活躍が始まります。

 

◆幽閉

 天正5(1577)年、官兵衛は中国地方討伐の司令官として播磨入りした秀吉に姫路城を差し出し、播磨の国人領主が織田につくよう交渉に奔走しました。翌年、織田についていた有岡城の荒木村重(むらしげ)が反旗を翻したため、官兵衛は説得に単身城へ乗り込みましたが幽閉され、1年もの土牢暮らしで膝が不自由になり髪も抜け落ちてしまいました。

 

◆中国大返し
 天正10(1582)年、備中高松城の水攻めの最中、信長が明智光秀に討たれたとの知らせを聞き泣き崩れる秀吉に官兵衛は「信長さまの仇を討てば天下が秀吉さまに回ってきましょう」と天下取りを進言し、信長の死を隠し毛利軍と和議を結び、秀吉軍は1週間で200キロを移動し京に上ると、山崎の戦いで一気に明智軍を粉砕しました。この天下取りの進言で、秀吉は官兵衛を頼もしく思う反面、以後、警戒心を抱くようになったと言われています。翌年、賤ヶ(しずが)岳(たけ)の合戦で柴田(しばた)勝家(かついえ)を討ち、秀吉の天下取りが現実味を帯びてきました。


◆秀吉の天下獲りへ

 天正14(1586)年、官兵衛は、秀吉の九州征伐先遣隊の軍師として諸大名の勧降工作に当たり、秀吉軍本隊の九州入り前にかなりの大名を秀吉側に引き入れるなど、九州征伐に貢献。

 

◆豊前領主へ

 翌年(1587)、その功績により豊前6郡12万石の領主となりました。激動の戦国の世、天下統一に突き進む豊臣秀吉を軍事参謀として支えた黒田官兵衛。


◆中津城築城~最後の夢へ

 領主となった官兵衛は、検地、中津城の築城、城下町の造営に着手し、中津のまちの礎を築きました。
また、天下分け目の関ヶ原の合戦の際には、天下取りの夢を持って中津の地で挙兵。九州の大名を次々に制圧し九州制覇まであと一歩のところで、官兵衛の天下取りの夢は終結しました。

 

 

官兵衛年表

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

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